第1話|写真誕生前夜 ― 古代からダゲレオタイプまで

カメラの歴史

今回は特別企画として、スマホで写真を撮るのが当たり前の毎日ですが、「写真」と「カメラ」がどのように生まれ、私たちの日常を変えてきたのか、その驚きと発見に満ちた歴史を全5回の連載でお届けします。人類が「光を写し取る」という夢を追い求めた壮大な物語は、きっと皆さんの知的好奇心を刺激するはずです。
ボリュームたっぷりでお届けしますので、どうぞ最後までお付き合いください。
それでは、カメラと写真の歴史を巡る旅へ、ご案内しましょう。

カメラの歴史 第1話:写真誕生前夜 – 古代の夢からダゲレオタイプへ

なぜ「写真」が夢とされてきたのか

私たちが目にする景色や人の姿を、そのままの形で永遠に留めたい──この願いは古来より人々の夢でした。鏡に映った自分の顔も、水面に揺れる風景も、手で触れない儚い像にすぎず、それを写し取る術は存在しなかったのです。絵画や彫刻によって姿を残そうとする試みは古代から行われてきましたが、それらはあくまで人間の手による模写です。実際の光景を光の力で直接焼き付ける「写真」は、まるで魔法のような発想であり、長きにわたり人々の想像上の産物でした。

しかし、「いつか光そのものに絵を描かせることができるのではないか」という夢は、人類の探求心を刺激し続けます。技術と科学が進歩するにつれ、その夢は少しずつ現実味を帯びていきました。本稿では、西洋を中心とした視点から、写真が発明されるまでにどのような技術的・思想的背景が積み重ねられたのかを辿ってみましょう。古代ギリシャの哲人たちの光学の知恵から始まり、ルネサンス期の芸術と科学の融合、さらに18〜19世紀初頭の化学革命と発明競争を経て、ついに世界初の写真が生み出されるまで──その歴史を紐解いていきます。

古代ギリシャからの光学思想(カメラ・オブスクラとピンホールの原理)

写真の技術的ルーツの一つは、光学の原理に求められます。紀元前5世紀頃、中国の墨子や古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、暗い部屋に小さな穴を開けて外の景色を映し出す現象に気づいていました。例えばアリストテレスは、木漏れ日が小さな穴を通ると地面に太陽の像が逆さに映ることを観察し、不思議に思いを巡らせています。これは後に「カメラ・オブスクラ(ラテン語で暗い部屋の意)」と呼ばれる現象で、針穴を通った光がスクリーン上に像を結ぶピンホール原理によるものです。

中世イスラム世界の学者アルハゼン(イブン・アル・ハイサム、965–1040年)は、このピンホール現象を詳細に研究し、光が直進する性質や像が逆さに投影される理屈を初めて数学的に解析しました。アルハゼンの著書『光学の書』は後にラテン語に翻訳され、中世ヨーロッパの学者たちにも大きな影響を与えます。こうした光学思想の蓄積により、「外界の像をスクリーンに映し出す」ための理論基盤が西洋にも伝わっていきました。

ルネサンス期の画家と光学の融合

ルネサンスに入り、光学の知見は芸術分野と結びついて発展します。15~16世紀のヨーロッパで画家たちは現実をより忠実に描くために遠近法を探求し、その一環としてカメラ・オブスクラの装置にも注目しました。暗い部屋あるいは箱の一面に小さな穴やレンズを取り付け、反対側の壁やスクリーンに外景を縮小して投影できるカメラ・オブスクラは、写実的な絵画制作の補助道具となったのです。投影された像を紙に映し、輪郭をなぞってスケッチすることで、誰でも正確な遠近法と陰影を備えた下絵を得られる――これは当時の画家にとって革命的な手法でした。

実際、レオナルド・ダ・ヴィンチはアルハゼンの光学研究にも精通しており、自身の手稿(1502年頃)にカメラ・オブスクラの明確な原理を書き残しています。16世紀ヴェネチアの学者ダニエル・バルバロは針穴を収束レンズに置き換えることで像を明るく鮮明にする方法を記述し、17世紀初頭にはドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが初めて「camera obscura(カメラ・オブスクラ)」という用語を用いました。さらに1685年、ドイツ人のヨハン・ツァンは携帯型で鏡を用いて像を正立させる一眼レフ式の小型カメラ・オブスクラの設計図すら提案しています。この頃までに「像を投影する箱」としてのカメラ(オブスクラ)はほぼ完成形に近づいており、あとは「その像を如何に定着させるか」という部分が残された課題でした。

とはいえ、ルネサンスから17世紀にかけての画家たちはカメラ・オブスクラを秘密の道具として活用しつつも、投影像そのものを直接保存する方法は持っていません。映し出された美しい風景も、時間とともに光とともに消えてしまいます。当時は手でなぞって絵画に写し取る以外に像を残す術がなかったため、完璧な「写真」の実現は依然として夢物語だったのです。

18〜19世紀初頭の化学の進歩と写真技術の胎動

写真のもう一つの技術的柱は化学の進歩でした。18世紀になると、「光によって変化する物質」が次第に発見され始めます。とりわけ銀の化合物が重要でした。ドイツの学者ヨハン・ハインリヒ・シュルツェは1724年、硝酸銀とチョーク(白亜)を混ぜた感光性の液体が日光によって黒く変色する現象を発見しています。これは光による化学変化(現在でいう感光)の実証であり、銀塩が光に反応して色が変わることを示した最初期の例でした。この当時、銀の塩化物やハロゲン化銀が光で変色すること自体は知られ始めており、感光遊びのような形で使われることもあったようです。しかし肝心の「カメラ・オブスクラの投影像」と結びつけてそれを定着させようという発想には、まだ至っていませんでした。

時代は移り19世紀初頭、いよいよ数々の発明家たちが写真術の萌芽に挑戦し始めます。イギリスのトマス・ウェッジウッドは1790年代末から1800年前後にかけて、感光性の硝酸銀を塗った紙や革で影絵(フォトグラム)を作る実験を行いました。ウェッジウッドはカメラ・オブスクラを用いて外景を写し取ろうとも試みましたが、露光に非常に長い時間を要したうえ像を固定(定着)できず、写った像は明るい所に出すとたちまち黒く消えてしまったと報告しています。彼の試みは「感光した像を保存する」という点で成功しませんでしたが、写真の実現へ向けた貴重な先駆けとなりました。

ニエプスやダゲールらによる最初の写真

こうした中、フランスで歴史的偉業が達成されます。ジョセフ・ニセフォール・ニエプスという発明家は、ついにカメラ・オブスクラで映した像を永久に定着させることに成功しました。1826年(または27年)頃、ニエプスはアスファルトの一種である瀝青(レチン、ビチューメン)を塗った金属板を8時間以上も太陽光に露光し、世界初の写真画像を得ました。それは彼の自宅の窓からの景色を写したもので、「ル・グラの窓からの眺め」として現存しています。ニエプス自身、この技術をヘリオグラフィ(heliographie)=「太陽で描く」と名付けており、自然の光で版画を作る新しい印刷法として発明したものでした。

ニエプスの方法(ヘリオグラフィ)は現在の写真とはかなり異なるプロセスでしたが、初めて大地が自ら描いた絵を人類は手に入れたのです。とはいえ、8時間もの露光が必要なニエプスの写真は非常にかすかな像で、実用には程遠いものでした。そこでニエプスはパリで劇場背景画家として成功していたルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと協力し、改良を重ねます。ダゲールはニエプスの死(1833年)後も研究を引き継ぎ、ついに決定的な二つの革新を成し遂げました。

第一に、銀メッキした金属板をヨウ素の蒸気にさらして感光させ、カメラで短時間(従来より格段に短い数分間)露光した後、水銀の蒸気に当てるという方法を見出したのです。肉眼では見えない潜像しか残っていない板でも、水銀蒸気で像が浮かび上がり、はっきりとした写真になることが判明しました。このおかげで必要な露光時間は飛躍的に短縮されました。第二に、こうして得られた像を板ごと塩水に浸すことで、余分な感光性物質を洗い流し、光に当ててもこれ以上変化しない固定が可能であることを突き止めました。これにより、撮影後に像が消えてしまう問題も解決されたのです。

ダゲールが完成させたこの写真術は「ダゲレオタイプ(銀板写真)」と名付けられました。1839年、ダゲレオタイプがフランス学士院(科学アカデミーと美術アカデミーの合同会合)において公表されると、世界中に大きなセンセーションを巻き起こしました。従来8時間かかっていた撮影が数分で済み、細部まで鮮明な像が得られるという報せに、人々は熱狂したのです。発明大国だったフランス政府はこの技術の特許を買い上げ、ただちに一般に無料公開しました。同年にはイギリスのウィリアム・タルボットも紙ネガを用いた別の写真術(カロタイプ)を発表しており、まさに写真の誕生が世界に宣言された年となりました。

写真がもたらした衝撃と次回への展開(写真の大衆化へ)

1839年に写真が世に現れると、そのインパクトは計り知れないものでした。それまで熟練の画家でさえ到達し得なかった「瞬間のリアルな定着」が、ごく短時間のうちに機械でもたらされるという事実に、人々は驚嘆します。フランスの画家ポール・ドラローシュは初めてダゲレオタイプを目にした際、「今日、絵画は死んだ!」と叫んだと伝えられています。もちろん絵画芸術が直ちに消え去ったわけではありませんが、この言葉は写真の登場が従来の美術観に与えた衝撃を端的に表現したものとして有名です。写真は世界の見方を一変させ、人々に新たな視覚体験を与えました。

写真術の公開から間もなくして、各国で改良競争が進みます。より感度の高い材料やプロセスが追求され、露光時間は数分から数十秒、ついには瞬きする間にまで短縮されていきました。1840年代には「ダゲレオタイプ熱」と呼ばれるブームが起こり、肖像写真館に人々が詰めかけます。写真は次第に富裕層だけでなく中産階級にも手が届くものとなり、19世紀後半にはガラス板を使う湿板写真や、携帯しやすい乾板・ロールフィルムの発明によって大衆化が進んでいきます。写真は記録メディアとして社会を変革すると同時に、芸術表現の新しい領域も切り開きました。

こうして振り返ると、写真の誕生は光学と化学と芸術的欲求の長い融合の歴史の果てに実現したことがわかります。古代から培われた夢が十九世紀に結実し、人類はついに「光で描く」技術を手に入れました。次回の第2話では、この生まれたばかりの写真術がいかにして世の中に普及し、人々の生活を変えていったのか、その過程を探っていきたいと思います(写真の大衆化へ続く)。

コメント

タイトルとURLをコピーしました