カメラの歴史 第1話|写真誕生前夜 ― 古代の観察からダゲレオタイプまで

写真誕生前夜古代からダゲレオタイプへ カメラの歴史

スマホで写真を撮るのが当たり前の毎日ですが、「写真」と「カメラ」はどのように生まれ、私たちの暮らしを変えてきたのでしょうか。この連載では、その歴史を全5回でたどります。第1話は、人類が「光を写し取る」という夢を追いかけ、ついに世界初の写真が生まれるまでのお話です。

カメラの歴史 第1話の年表

なぜ「写真」は長いあいだ夢だったのか

目にした景色や人の姿を、そのままの形で残したい――この願いは、はるか昔からありました。鏡に映った顔も、水面に揺れる風景も、手で触れることのできない一瞬の像にすぎません。絵画や彫刻で姿を残すことはできましたが、それはあくまで人の手による写しです。

光そのものに絵を描かせる「写真」は、長いあいだ想像の中だけのものでした。その夢は、光の性質を知る「光学」と、光で変化する物質を扱う「化学」という、2つの知識が積み重なることで、少しずつ現実に近づいていきます。

小さな穴が像を映す:カメラ・オブスクラの原理

写真のルーツのひとつは、暗い部屋の壁に開けた小さな穴から光が差し込むと、反対側の壁に外の景色が逆さに映るという現象です。紀元前5世紀ごろの中国の思想家・墨子や、古代ギリシャのアリストテレスも、この現象に気づいていたとされています。アリストテレスは、木漏れ日が地面に太陽の形を映すことを観察していました。

この現象は、のちに「カメラ・オブスクラ(ラテン語で暗い部屋の意味)」と呼ばれます。今の「カメラ」という言葉の語源です。小さな穴を通った光がまっすぐ進み、反対側に像を結ぶ「ピンホール」の原理によるものです。

中世イスラム世界の学者イブン・アル・ハイサム(アルハゼン、965年ごろ〜1040年ごろ)は、この現象を詳しく研究し、光がまっすぐ進む性質から、像が逆さに映る理由を説明しました。彼の著書『光学の書』はのちにラテン語に訳され、ヨーロッパの学者たちに大きな影響を与えます。

ルネサンスの画家たちと「像を映す箱」

15〜16世紀のルネサンス期、画家たちは現実をより正確に描くために遠近法を追い求めました。そこで注目されたのがカメラ・オブスクラです。暗い部屋や箱に穴やレンズを付け、反対側に映った景色を紙の上でなぞれば、正確な遠近感を持つ下絵が描けます。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1502年ごろの手稿にカメラ・オブスクラの原理を書き残しています。16世紀には、ヴェネツィアのダニエーレ・バルバロが、穴の代わりにレンズを使うと像が明るく鮮明になることを記しました。17世紀初めには天文学者ヨハネス・ケプラーが「カメラ・オブスクラ」という言葉を使い、1685年にはドイツのヨハン・ツァーンが、鏡で像を正しい向きに直す持ち運び式の装置を考案しています。

こうして「像を映す箱」としてのカメラは、17世紀の終わりまでにほぼ形が整いました。残された課題は、映った像をどうやって残すかです。どんなに美しい像も、光が消えれば一緒に消えてしまいました。

光で色が変わる物質の発見

写真のもうひとつの柱は化学です。1717年ごろ、ドイツの学者ヨハン・ハインリヒ・シュルツェは、銀を含む液体が日光に当たると黒く変わることを実験で確かめました。光で物質が変化すること、つまり「感光」を示した、もっとも初期の例のひとつです。

1800年前後には、イギリスのトーマス・ウェッジウッドが、銀の化合物を塗った紙や革に物の影を焼き付ける実験を行いました。カメラ・オブスクラの像を写し取ることも試みましたが、像を固定できず、明るい場所に出すとすぐに全体が黒くなって消えてしまったと記録されています。像を「残す」方法は、まだ見つかっていませんでした。

ニエプスが撮った世界最古の写真

この壁を最初に越えたのが、フランスの発明家ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスです。1827年ごろ、ニエプスはアスファルトの一種である瀝青(ビチューメン)を塗った白目(ピューター)の板を、カメラ・オブスクラの中で長時間光に当て、自宅の窓から見た景色を写し取りました。現存する世界最古の写真とされる「ル・グラの窓からの眺め」です。

露光時間は、昔から「約8時間」とされてきましたが、近年の再現実験では数日かかったのではないかという説もあります。いずれにしても、ぼんやりとした像で、実用にはほど遠いものでした。ニエプスは自分の方法を「ヘリオグラフィ(太陽で描く)」と名付けています。

ダゲールと「ダゲレオタイプ」の誕生

ニエプスは、パリで舞台の背景画家として成功していたルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと手を組み、改良を進めます。1833年にニエプスが亡くなったあとも、ダゲールは研究を続け、2つの大きな発見をしました。

  1. 短い露光で像を浮かび上がらせる方法:銀メッキした板をヨウ素の蒸気で感光させ、カメラで露光したあと水銀の蒸気に当てると、目に見えなかった像(潜像)がはっきり現れることを見つけました。これで露光時間は数分ほどに短くなりました。
  2. 像を固定する方法:板を塩水で洗い、光に反応する物質を取り除くことで、像がそれ以上変化しないようにしました。

こうして完成した写真術は「ダゲレオタイプ(銀板写真)」と名付けられ、1839年、パリのフランス科学アカデミーで公表されました。フランス政府はダゲールらに年金を支払う形でこの技術を買い取り、広く公開します。1839年が「写真誕生の年」と呼ばれるのはこのためです。

同じころ、イギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットも、紙を使った自分の写真術を発表しています。タルボットは1841年にそれを改良した「カロタイプ」を公開しました。1枚のネガ(明暗が反転した原板)から何枚でも写真を焼き増しできる方式で、今のフィルム写真につながる考え方です。

日本に写真がやってきた

写真の技術は、意外に早く日本にも届いています。1848年(嘉永元年)、長崎の商人・上野俊之丞がダゲレオタイプの機材を取り入れたことが、日本への写真伝来の始まりとされています。俊之丞は、のちに日本の写真の先駆者として知られる上野彦馬の父です。

機材を手に入れても、撮影に成功するのは簡単ではありませんでした。苦労の末、1857年(安政4年)に、薩摩藩主・島津斉彬の姿が側近たちの手で銀板写真に写されます。日本人の手で撮影に成功した最初の例とされ、1999年には、写真として初めて国の重要文化財に指定されました。

ちなみに、6月1日の「写真の日」は、1841年に写真機が伝わったという説をもとに決められたものですが、その後の研究で、現在は1848年に伝わったとする説が一般的になっています。

写真がもたらした衝撃

熟練の画家でも描ききれない細部まで、短い時間で機械が写し取る。その事実は人々を驚かせました。フランスの画家ポール・ドラローシュは、ダゲレオタイプを見て「今日を限りに絵画は死んだ」と言ったと伝えられています。実際には絵画はなくなりませんでしたが、この言葉は、写真が人々に与えた衝撃の大きさをよく表しています。

公開のあと、各国で改良が進み、露光時間はどんどん短くなっていきます。1840年代には肖像写真館がにぎわい、写真は少しずつ多くの人の手に届くものになっていきました。

古代の観察から始まった光学と、18世紀からの化学。写真は、この2つの長い積み重ねの先に生まれました。次回の第2話「写真の大衆化とカメラ産業の夜明け」では、生まれたばかりの写真が、どのようにして誰もが楽しめるものになっていったのかをたどります。


参考にした資料

  • Wikipedia(英語版)「Johann Heinrich Schulze」「View from the Window at Le Gras」「Calotype」
  • 写真史の一般的な概説(カメラ・オブスクラ、ダゲレオタイプの成立過程)
  • 文化庁「日本の近代美術:写真」(島津斉彬像の重要文化財指定)、長崎市・長崎学関連資料(写真の伝来)

※年代には諸説あるものがあります。この記事では、上記の資料で一般的とされている年を採用しています(2026年10月に内容を見直しました)。

タイトルとURLをコピーしました