第2話│写真の大衆化とカメラ産業の夜明け

カメラの歴史

カメラの歴史 第2話:写真の大衆化とカメラ産業の夜明け

写真の歴史を振り返る本シリーズ、第2話のテーマは「写真の大衆化とカメラ産業の夜明け」です。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、写真はそれまで一部の専門家だけの技術から、一般大衆にも広く親しまれる文化へと劇的に変貌しました。この時期にはロールフィルムの発明や簡易カメラの登場によって撮影の敷居が下がり、さらに小型カメラの開発が進む中で、写真撮影は誰もが楽しめる身近なものとなっていきます。本稿では、写真が大衆化していった過程と、それがもたらした社会の変化、そしてこの流れの中で芽生えたカメラ産業の黎明期について紐解いていきます。

ロールフィルムの発明とコダック革命

19世紀、写真撮影には大きなカメラとガラス乾板(感光板)を用いるのが常でした。機材は重く、現像・印画には暗室での化学処理が欠かせず、写真は専門技術者や限られた愛好家だけのものだったのです。

この状況を大きく変えたのが、米国の発明家ジョージ・イーストマンによるロールフィルムの開発です。1880年代半ば、イーストマンは感光材料を柔軟なフィルムに塗布して帯状(ロール状)に巻き取る技術を実用化しました。これにより複数の写真を連続して撮影できるフィルムパックをカメラに装填することが可能となり、撮影のたびにガラス乾板を交換する手間が省かれます。フィルムは軽量で持ち運びやすく、写真機の小型化と撮影の簡便化に革命をもたらしました。

そして1888年、イーストマンは自身の会社イーストマン・コダックから、ロールフィルムを内蔵した世界初の一般向け簡易カメラを発売します。彼はこの新製品に「コダック」という覚えやすい名前を与えました。この箱型カメラにはあらかじめ約100枚分のフィルムが装填されており、ユーザーはシャッターを切り続けるだけで次々と写真を撮影できます。撮り終えたらカメラ本体を工場に送れば、工場でフィルムの現像・焼き付け(プリント)と新しいフィルムの再装填が行われ、再び手元に戻ってくるというサービスも画期的でした。

こうした仕組みにより、撮影者は難しい現像作業に煩わされることなく写真を楽しめるようになります。初代コダックの価格は25ドルと当時としては高価でしたが、それでも富裕なアマチュア層を中心に受け入れられ、「手に持てる写真機で誰でも撮れる」という新時代の到来を印象づけました。コダックはたちまち人気を博し、写真は専門家だけのものではなく個人の趣味としても成立しうることを世に示したのです。

「You press the button, we do the rest.」――その意味と影響

コダックの販売に際して、イーストマンは『You press the button, we do the rest.(あなたはボタンを押すだけ、残りは私たちが行います)』という有名なキャッチコピーを掲げました。この一文は「撮影者はシャッターを押すだけでよい。それ以外の煩雑な作業はすべてメーカー側が引き受ける」というサービスの本質を端的に表現したものです。写真撮影という行為と、その後の現像・プリント作業を分離し、後者を企業が請け負うという発想は当時としては革新的でした。

このキャッチコピーは一般の人々に強烈な印象を与え、「ボタンを押すだけ」で写真が撮れるというメッセージは写真をぐっと身近なものに感じさせました。難しいことは何もいらないという安心感は、それまで写真に縁遠かった層をも惹きつけ、写真の裾野を一気に広げる効果をもたらしたのです。イーストマンの広告戦略は大成功を収め、コダックの名は瞬く間に広まりました。写真撮影はもはや専門家だけの特別な行為ではなく、誰もが楽しめる娯楽になりうる――そんな時代が始まったのです。

写真館からスナップ写真へ:写真文化の変化

19世紀当時、写真を撮ることは特別な行事でした。人々は晴れ着に身を包んで写真館(フォトスタジオ)を訪れ、写真家の前で厳かにポーズをとったものです。露光に時間がかかるため被写体は微動だにせず椅子に腰かけ、笑顔を見せることさえ控えるのが普通でした。出来上がった肖像写真はまるで絵画の肖像画のように格式張ったもので、写真には静止した威厳が求められていたのです。

しかし、携帯できる簡易カメラが登場すると、このような写真文化に大きな転機が訪れます。人々は写真館の外で、自らの手で気軽に写真を撮り始めました。こうして生まれたのがスナップ写真の文化です。家族や友人と出かけた先でカメラを取り出し、ピクニックで遊ぶ子供たちや浜辺ではしゃぐ若者たちを撮影するといった具合に、日常の何気ない一コマを写真に収めることが流行し始めました。かつてのかしこまった肖像写真では考えられなかったような、生き生きとした瞬間や自然な笑顔が写真に記録されるようになったのです。

フィルムに何十枚も撮影できるようになると、一枚一枚に対する重みは相対的に減り、人々は肩肘張らずにシャッターを切れるようになりました。当時の人々は写真遊びにも工夫を凝らしています。例えば、新聞に穴をあけて顔を出し「ニュースを破る(ニュースをブレイクする)」という言葉遊びを写真で表現したり、鏡越しに自分自身を撮影する現在の「自撮り(セルフィー)」に通じる遊びを試みたりと、写真を使ったユーモアが広まりました。仲間同士でふざけたポーズをとったり、大勢でカメラの前に押し寄せたりする宴会写真もこの頃に生まれています。堅苦しかった写真が解放され、人々は新しい表現手段としてのスナップ撮影を存分に楽しんだのです。

もっとも、こうしたスナップ写真の洪水に当初は戸惑いや批判の声もありました。プロの写真家たちは素人による構図やピントの甘い写真に眉をひそめ、「この写真ブームもすぐ廃れるだろう」と揶揄する向きもあったのです。実際、米国の写真家アルフレッド・スティーグリッツは1890年代末に「写真という流行も風前の灯火だ」と嘆いたと伝えられています。しかし人々のスナップ熱は衰えることなく、そうした懐疑をよそに日常スナップは定着していきました。写真は新たな大衆文化として根付き、かつてのような格式ばったものではなく、誰もが自由に撮って楽しめるものへと変貌を遂げたのです。

一般大衆による写真撮影の始まりと社会への影響

20世紀に入ると、写真撮影は本格的に一般大衆の手に広がっていきます。その象徴が、1900年にコダック社が発売したブローニー (Brownie)と呼ばれる大衆向けカメラでした。ブローニーは驚くべき低価格の1ドルで売り出され、子供や勤労者でも購入できる初めてのカメラとなります。小型の箱型ボディに簡単な操作系を備えたブローニーはたちまちベストセラーとなり、発売後わずか数年で世界中で数百万台(記録によれば5年間で1000万台近く)が売れる空前のヒット商品となりました。

この大衆的なカメラの登場により、写真は社会の隅々にまで浸透しました。裕福な趣味人だけでなく、あらゆる階層の人々が日常的にカメラを持ち歩き、家族や友人との思い出を写真に収め始めます。旅行先での記念写真、学校行事のスナップ、何気ない日常のひとコマまで、人々は自らの生活を積極的に写真に残すようになりました。撮った写真をアルバムに整理して家族で眺めるといった楽しみも広がり、写真は大衆にとって身近な娯楽であり記録手段となっていきます。

写真がこれほど多くの人に受け入れられるようになると、社会には様々な影響が現れました。人々は「大事な瞬間は写真に残そう」という意識を持つようになり、結婚式や宴会の演出にも写真映えを意識するようになります。また各地でアマチュア写真クラブやコンクールが盛んに開催され、写真は一般の趣味として確固たる地位を築きました。こうした写真ブームは新聞や雑誌にも波及し、報道や広告における写真の重要性が増すきっかけともなりました。

一方で、写真の大衆化は新たな問題も生み出します。携帯カメラの普及によって、人が知らぬ間に写真を撮られてしまう事態が生じ始めたのです。それまで写真撮影は被写体の合意と協力のもとで行われていたため、これは社会にとって初めて直面するプライバシーの問題でした。1890年代には新聞が「カメラに用心せよ。上品な市民も油断すればこっそり写真に撮られる」と警告を発し、イギリスでは海岸で女性を盗撮する不埒な写真屋から身を守るため若者たちが自警団を結成したとの報道もあります。

さらに米国では、1890年に弁護士のウォーレンとブランダイスが法律評論『プライバシーの権利』を発表し、「瞬時に撮影できるカメラの発明が人々の私生活を侵害している」として警鐘を鳴らしました。この論文は後にプライバシー権確立につながる先駆的議論となり、写真技術の進歩が社会のルールや倫理にも影響を与え始めた例と言えるでしょう。

小型カメラの登場:ライカの衝撃

1920年代に入っても、当時の一般的なカメラは折り畳み式や箱型の中判カメラなど、比較的大型で重量のあるものでした。そんな中、ドイツから登場したライカ (Leica)という小さなカメラが、写真界を再び革新します。1925年、エルンスト・ライツ社が発表したライカ I 型は、世界初の本格的な35mmフィルム用小型カメラでした。

設計者オスカー・バルナックは、自身が喘息で重い撮影機材を持ち運べなかった経験から、小型でも高性能なカメラを追求しました。彼は映画撮影に使われていた35mmフィルムに着目し、その2コマ分にあたる24×36mm判のフォーマットで静止画を写せるカメラを実現します。小さなネガから十分な画質を得るため、高精度のレンズも新規に設計され、撮影後にネガを引き伸ばして大きくプリントできるよう工夫されました。こうして誕生したライカは、手のひらに収まるサイズながら従来の大型カメラに匹敵する描写力を備えた、画期的な製品だったのです。

ライカが写真にもたらした衝撃は大きなものでした。ポケットに入る携帯性と優れた描写力を兼ね備えたこのカメラは、写真家に新たな機動力を与えました。たとえばライカの登場によって、街角でのスナップ撮影や報道写真が飛躍的に発展します。カメラを首から下げて日常の中で決定的瞬間をとらえることが容易になり、人々の自然な表情や街頭のリアルな光景がこれまで以上に生き生きと記録されるようになりました。また戦地に携行して従軍カメラマンが臨場感あふれる写真を撮影することも可能となり、小型カメラはドキュメンタリーや報道の分野で不可欠な道具となっていきます。ライカとそれに続く各社の35mmカメラは多くの写真家・記者に愛用され、新時代の写真表現を切り拓いていきました。

ライカの成功を受け、ドイツではツァイス・イコン社が競合機を発売するなど各メーカーが高性能な小型カメラの市場に参入しました。米国でもコダック社が35mmフィルムを使った「レチナ」シリーズを1930年代に展開し始めるなど、この頃には世界的にカメラ産業が活発化していきます。カメラは複数の国際的企業がしのぎを削る技術産業となり、更なる革新が追求される時代へと移っていったのです。

日本におけるカメラ産業の夜明け

こうした写真とカメラの発展は、日本にも影響を及ぼしました。明治時代以来、西洋の写真技術がもたらされていた日本ですが、20世紀初頭になるといよいよ国産カメラの製造が始まります。1903年(明治36年)、小西本店(後のコニカ)が日本初の量産カメラ「チェリー手提暗函」(通称チェリーカメラ)を発売しました。乾板を数枚装填できるシンプルな手提げ式の箱型カメラで、価格は約2円と比較的手に届きやすい設定でした。それまで写真機といえば高価な舶来品か写真館の道具でしたが、このチェリーカメラの登場によって国内でも一般の人々がカメラを手にする道が開かれたのです。

大正末から昭和初期にかけては、日本でも写真機の国産化が本格化します。1928年(昭和3年)には田嶋一雄が欧州での経験をもとに「日独写真機商会」(後のミノルタ)を設立し、翌1929年には最初の国産カメラを完成させました。1930年代に入ると、ドイツ製ライカに倣った35mmレンジファインダーカメラの開発にも挑戦が始まります(1934年には、後にキヤノンとなる精機光学研究所が試作機「カンノン」を公開しました)。このように日本でも欧米に遅れながら独自のカメラメーカーが台頭し、光学機器の技術蓄積が進んでいきました。そして戦後には、こうした黎明期の基盤をもとに日本のカメラ産業が飛躍的発展を遂げていくことになります。


19世紀後半から20世紀初頭にかけて、写真技術の革新と大衆化は社会や文化に大きな変化をもたらしました。写真は限られた専門家のものから誰もが扱えるメディアへと姿を変え、人々の思い出の残し方や情報の伝達方法にも影響を与えます。同時に、この時期に芽生えたカメラ産業の礎が、後の急速な技術進歩と普及へと繋がっていきました。まさに「写真の大衆化とカメラ産業の夜明け」にふさわしい激動の時代だったと言えるでしょう。

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