カメラと写真の歴史をたどる連載の第3話です。第2話では、写真が大衆のものになり、日本でもカメラ産業が芽生えるまでを見てきました。今回は第二次世界大戦のあと、日本のカメラが世界で認められ、一眼レフが進化し、ついにピント合わせまで自動になるまでの時代をたどります。

日本のレンズが世界に知られたきっかけ
戦後まもない日本のカメラ産業は、まだドイツの後を追う存在でした。その評価を変えるきっかけのひとつになったのが、1950年の出来事です。アメリカの写真誌『LIFE』の写真家デビッド・ダグラス・ダンカンが、日本光学(現在のニコン)のレンズ「ニッコール」の写りに驚き、それを朝鮮戦争の取材に持っていきました。
ダンカンの写真の鮮明さは評判を呼び、ほかの報道写真家たちも日本製のレンズに注目するようになります。ニコンは、ダンカンの仕事によってニコンとニッコールの名前が世界に知られるようになったと、のちに感謝の言葉を公表しています。
一眼レフが抱えていた2つの弱点
一眼レフは、レンズを通った光を中の鏡(ミラー)で上に曲げ、撮影するのと同じ像をのぞきながら構図を決められるカメラです。望遠レンズでも接写でも、写る範囲がそのまま見えるのが大きな長所でした。ただ、初期の一眼レフには2つの弱点がありました。
- のぞき方が不便:上からのぞき込む方式で、しかも像の左右が反対に見えました。
- 撮ったあと真っ暗になる:シャッターを切ると鏡が上がったままになり、次に巻き上げるまでファインダーが真っ暗になりました。
1つ目の弱点を解決したのが、断面が五角形のガラス「ペンタプリズム」です。1949年に東ドイツのツァイス・イコンが発売した「コンタックスS」は、ペンタプリズムで像を正しい向きに直し、目の高さでのぞける一眼レフの先駆けとなりました。
ちなみに、一眼レフの頭の上にある三角形の出っ張りの中に入っているのが、このペンタプリズムです。今のミラーレスでも、あの形を受け継いだデザインの機種が多くあります。
なぜ一眼レフが主役になったのか
当時の報道写真やスナップで主流だったのは、ライカに代表される「レンジファインダーカメラ」でした。こちらはレンズとは別の小窓から景色を見る仕組みのため、軽くて静かな反面、望遠レンズや接写では、のぞいて見える範囲と実際に写る範囲がずれてしまいます。
一眼レフなら、どんなレンズを付けても、写る範囲とピントをそのまま目で確かめられます。いろいろなレンズを付け替えて使うほど、この長所は大きくなります。弱点が解決されていくにつれて、一眼レフはレンズ交換式カメラの主役になっていきました。
日本の一眼レフの挑戦:アサヒフレックスとペンタックス
日本で最初の35mm一眼レフは、1952年に旭光学工業(のちのペンタックス)が発売した「アサヒフレックス」です。そして1954年の「アサヒフレックスIIB」で、2つ目の弱点を解決する仕組みが実用化されます。シャッターを切ったあと、鏡がすぐに元の位置に戻る「クイックリターンミラー」です。これで、撮影したあともファインダーが暗くならずに済むようになりました。
1957年には、ペンタプリズムとクイックリターンミラーを組み合わせた「アサヒペンタックス」が登場します。目の高さで正しい向きの像を見ながら、撮ったあとも途切れずに被写体を追える。この組み合わせは、その後の35mm一眼レフの基本形となっていきました。
プロの道具になった「ニコンF」
1959年、日本光学は同社初の一眼レフ「ニコンF」を発売します。ファインダーやピント板を目的に合わせて交換でき、さまざまなレンズやアクセサリーと組み合わせて使える「システムカメラ」でした。ひとつひとつの技術はすでにあったものでも、それらを1台にまとめ上げた完成度の高さが評価されました。
ニコンFは報道写真家に広く使われ、ベトナム戦争の取材現場でも活躍しました。改造したニコンFは宇宙にも運ばれ、アポロ15号では月の周回軌道で使われています。ニコンFは1973年まで作られ続けました。
露出計がカメラの中へ
写真の明るさを決めるには、光の量を測る「露出計」が必要です。かつては別の機械で測ったり、カメラの外側に付いた露出計を使ったりしていました。
1963年、東京光学(のちのトプコン)の「トプコンREスーパー」は、レンズを通ってきた光をそのまま測る「TTL測光」を、レンズの絞りを開いたままで行える一眼レフとして登場し、業界を驚かせました。レンズを通った光で測るので、望遠や接写でも正確に明るさを決められます。この方式は、のちの一眼レフの標準になっていきました。
電子の頭脳を持ったカメラ
1970年代になると、カメラに電子部品が入り始めます。1976年4月にキヤノンが発売した「AE-1」は、マイクロコンピューターで制御される一眼レフで、デジタルの集積回路を積んだ最初の一眼レフとされています。設定のかなりの部分をカメラが自動で決めてくれるうえ、手の届きやすい値段だったこともあり、多くのアマチュアにとって初めての一眼レフになりました。
ピント合わせも自動に:オートフォーカスの時代
最後に残ったのが、ピント合わせです。1977年、小西六写真工業(のちのコニカ)が発売した「コニカC35AF」は、世界で初めて量産されたオートフォーカス(AF)カメラとされています。愛称は「ジャスピンコニカ」。撮った写真の失敗の多くがピンぼけだったことから、それを防ぐために開発されたといわれます。
一眼レフでAFを本格的に実現したのが、1985年にミノルタが発売した「α-7000」です。ピントを測る仕組みとピントを動かすモーターをカメラ本体に収め、フィルムの巻き上げも自動にしました。この形は、その後の一眼レフの標準的な構成になっていきます。今のミラーレスでも当たり前の「シャッターボタンを半押しするとピントが合う」感覚は、この時代に一般的なものになりました。
誰でも撮れる「写ルンです」
同じころ、まったく別の方向から写真をさらに身近にしたのが、1986年に富士写真フイルム(現在の富士フイルム)が発売した「写ルンです」です。フィルムにレンズとシャッターを付けた「レンズ付きフィルム」で、撮り終えたら本体ごとお店に出せば写真になります。コダックの「あなたはボタンを押すだけ」という考え方を、さらに手軽にした形とも言えるでしょう。
まとめ:今のカメラの「当たり前」はこの時代に生まれた
目の高さで正しい像が見えるファインダー、撮ったあとも暗くならない鏡、レンズを通った光で測る露出、電子制御、そしてオートフォーカス。今のカメラで当たり前になっている機能の多くは、戦後から1980年代にかけて形づくられました。その多くの場面で、日本のメーカーが中心的な役割を果たしています。
次回の第4話では、フィルムからデジタルへ。写真の仕組みそのものが変わった時代をたどります。
参考にした資料
- ニコン「デビッド・ダグラス・ダンカン氏ご逝去について」(2018年)
- Wikipedia(英語版)「Asahi Pentax」「Nikon F」「Topcon RE Super」「Canon AE-1」「Minolta Maxxum 7000」「Konica C35 AF」
- キヤノン「キヤノンカメラミュージアム」(AE-1)
- コンタックスS、写ルンですに関する報道・解説記事
※「世界初」「最初」などの評価には資料によって差があるものがあります。この記事では、上記の資料で一般的とされている内容を採用しています。
